taizooo の2025年のベストから
taizooo.icon
https://gyazo.com/407361b58d073c72d12470c2a96b4d41
関連するページ
いつもなら一度ベストを書くともう二度と読むものか、とか思うんだけど、今年は違った。
宿題:
引用
長い長い引用の果てに、『鉄鼠の檻』を切り分けた二つの相、牛と鼠がようやく姿を現しました。
牛(矛盾律)
それは空。手段と目的は一体。相分かつことができない。なにかを達成しようとすることと、このありふれた毎日も相分かつことができない。このことは僕らの「知る」という振る舞いが、自己の認識や探求ではなく無数の GPU による膨大なベクトル演算に左右されるようになりつつあるいま、当にこの瞬間、特別な意味を持ちます。〈判ること〉と〈判らないこと〉は呼吸と同じく、一つの事象の表と裏にすぎません。
我々は電子回路でもなく、半導体素子でもなく、蒸気機関でもなく、需要と供給の交点でもなく、シナプスの発火でもなく、ミトコンドリアの化学反応でもなく、デオキシリボ核酸の方舟でもない。ただ一個の精神、かつ、ただ一個の身体である。修証一等。
code:Law of contradiction
¬(P∧¬P)
鼠(排中律)
それは怪。〈判らないもの〉が世界には存在する。〈判るもの〉と〈判らないもの〉が〈判る〉ということ。これは科学においても哲学においても重要な意味を持ちます。〈判る〉ことを司るのが理性、知性、悟性であるならば、〈判らない〉ことを司るのが怪異、妖怪、怨霊。両者はお互いを補完する位置にある。死は現世〈判るもの〉と他界〈判らないもの〉を繋ぐ入口であり、怪異は他界が存在することを表象する。その根本は言葉であり言語。この世界は事実から成る。事実は分節化されていなければならない。
であるならば言語も分節化されていなければならない。
言語だけが可能性を開くのだ。だがしかし世界や感情のほとんどは「フォヌカポウ」、「亜qw瀬drftgyふじこ」、言葉にならない。ならないのである。不立文字。
code:Law of excluded middle
P∨¬P
矛盾律と排中律、そしてもう一つ、同一律
同一律
これを自分のベストで取り上げたかったけれど、うまいく当て込めなかった。
それが、nagata サンのベストの中にあった
「述語ハ主語ニ内在スル」
《各人の個体概念は、その人にいつか生じることのすべてを一遍に含んでいるので、その概念を見れば、それぞれの出来事についての真理のア・プリオリな証明もしくは理由、つまりなぜ他ならぬこのことが生じたのかということがわかる。しかしこの真理は、どれほど確実であっても偶然的であることに変わりはない。それは神もしくは被造物の自由意志に基礎付けられているからである。神であれ被造物であれ、その選択には常に理由があるが、その理由は傾かせるが強いることのないものである。》 「私は私」
「私は私」というトートロジーを超えて
私は私です
この詩のように人間の知覚する現実は、単線的な同一律「A=A」を超出し、絶えずはみ出したり重なり合ったりしながらぐじゃぐじゃ構築されているものではないか。わたしたちは複雑にひしめき合う共鳴体として生きている。
安部公房『死に急ぐ鯨たち』(新潮文庫、養老孟司による「解説」より)
“動物の行動は、「閉じたループ」を作る。つまり特定の入力があると、特定の出力が生じる。したがって、入力から出力までの「ループ」には、どこにも抜け穴がない。ところが人間では、そのループが「開いて」しまう。すなわち言語という形で、ゆえにまたその結果として、個々別々に、ループが開いてしまうのである。これは卓見である。”
たぶんこのループの開かれが過剰になると、統合失調症のような症状を呈してしまう。だから「私は私」という閉じた同一律も重要になる。かといって閉じてばかりでも身動きがとれない。多くの人々は無意識にそこそこ開いたり閉じたりパカパカしながら日々を過ごしているのであろう。それぞれの加減で。
「存在が花する」
井筒俊彦
「存在が花する」
小野純一『井筒俊彦 世界と対話する哲学』より
存在」が主語、すなわち動作主であり、他の全ての個物をその動的な現れ(属性)で示す。なぜなら、現実は絶え間なく移りゆく動的な出来事であるからだ。
「存在が花する」はありとあらゆるものが存在する不定形の世界に生じた、ひとつの兆しとしての花のありようを表現している。初めて出会うような、存在の兆候としての花。対して「花が存在する」は図式的というか、先入観にもとづく限局した見方といえる。知っている、思い込んでいる、ことばとしての花を指している。
その後について
1)
いつもはその年のベストを書くと、もう一切その文章は読まないっていうか読みたくないんだけど、今年はいつもと全然違う書き方というか、「ベスト」の切り取り方がいつもとは全然違っていて、そのせいか、やたらとあの「ベスト」に関わるものを書き連ねている。書き連ねているというか写経している。
ほぼほぼ書き尽くしたと思っていたんだけど、そう思うたびになにかを思い出す。思い出すので終わらない。たぶんこれはしばらく続く。そうすることに飽きてしまうまで。
2)
判ることと判らないことが判るようになると、簡単には文章を切り取ることができなくなってて、丸ごと書き写すしかなくなったりしてて、全文引用とか下の下だと思ってたんだけど、いまはその気持ちがよくわかる。
3)
今日の 竹内いつか サンは今年のベストで、
と言って、一大事であっただろう出来事をバサッと切り捨てたうえで、「どう考えても私の『ベスト』はこれだ」、高らかに宣言していたけれど、
振り返ると僕も今回のベストで、
潜るべき過去ベストは存在しない。存在しない?だがしかし、辿るべき過去ベストなんて無限にある。うーん、というか飽きた。飽きた? そして、
そのことについては書くことがない。書くことがない?うーん、書きたくない?たぶんそうなのだ。書きたくない。
と言っていて、
たぶん僕のそれも、書こうとして書けなかったどれもが「ベストではなくただのマスト」で、そのようにしか書けなかったそれが、結果的にはやっぱりベストだったのだろう。
4)
私たちは変化の渦中にいて、自分自身がその変化の真っ只中にいることを知ることができない。
そんなことを、傍観者としてではなく当事者として、ちょっとずつ認識しつつある。いま当にその中にいる。言葉が足りなくてうまく書けそうもないし、これがどういったものなのか、いったいどこにつながっているのか、まったく見当もつかないけれど。
その始まりはいま見直すと昨年書いた『2024年を探す』の中にも垣間見えるし、
今年の『2025年を探す』でそのようにしか書けなかったそれが、 hysysk サンのベストを見た辺りで「アレ?」と思い、 nagata サンのベストで芯に喰らって、そして一苦労して復元した youpy のネットプリントの中にも驚いたことにそれはあった。
suyhnc のベストの中にもあったかもしれない
5)
「垣間見えたもの」のうちの一つは
西洋から東洋への視座の転換、とかいうか、
とかいう、そんなよくわからない比喩、というよりは、
世界(実在するのかどうなのかよくわからない海の彼方の何処か)から、身の回りの半径2mの生活しているその足元への視点への転換
これは音楽で体験した、ポップミュージックからクラシカルミュージックへの視座の転換に匹敵するくらい大きい
6)
quoposk サンのベストにもあった
境界、あわい